原作『声優愛好会にはアイがなくっちゃ♡』⑦

ようやく空に夕焼けがかかったのは、午後の6時を回ってからだった。
ユオ校の校舎内も薄暗闇の空間が目立つようになった。夏休みを迎えて生徒の数はほとんどない。少し遠くで蝉の鳴き声が聴こえる。
東京では蝉は昼夜問わず鳴いている。それは人が自然を破壊した象徴のような気がして、知らぬ者が聴けば気持ちが悪いかもしれない。しかし、住民たちはそのことに一切気づくことはない。その歪さは人の心の変質となって表面化するのかもしれない。
「……本当にやるのか?」
「さあね。俺は存ぜぬところだって言わなかったか?」
「……」
それは機材に囲まれた防音室の中と外の会話だった。
「俺はただいつもの通り、ここでマイクを使った練習をしていただけさ。サポートをお前にお願いしてね」
「ああ」
「そして、それはつつがなく終わる。何も問題は起こっていない。だって俺は何も見てないんだから」
「お前は・・本当に狡いな」
忌々しげな口調で男は答えた。しかし、それに応じる男の口調はあくまでも涼やかだった。
「そうかい。でも話しを持ち込んだのはお前の方だと記憶しているが?」
「……ああ、そうだよ」
「じゃ、好きにすればいい。どちらにせよ、俺は何も見てないから」
「……ちっ」と小さく舌打ちしつつも防音室の外で機材と睨めっこしていた男は兼ねてから考えていた行動に移った。それを防音室の中の男は目の端で追いつつも咎めることはなかった。 彼は何も見ていないのだから。
翌日、ユオ校声優部に小さな騒動が巻き起こった。
部室の一つ(稽古場と本部室と録音室の三つを持っている)である録音室から予備の録音機材が消えていたのだ。
それは最小限の被害であることから、とりあえず声優部は公けにすることを控えた。もしかしたら内部の犯行の可能性もあるからだ。そんなことよりも今は夏休みをどう有意義に使うかの方が先決、と顧問である町井と部長の弓流は結論付けた。
以降、機材盗難事件が表だって話題に上ることはなくなった。
その事件が再熱して激しく燃え上がったのは、それから一週間後のことだった。
声優部に小さなさざ波が立っていた頃、そんなことが起こっていることなど知る由もない僕は行きつけのゲーセンにいた。
好きに時間を過ごすことを許したのだから何の問題もないはずだったが、僕の心の底には微かな罪悪感があった。何故なら、今日は終業式があった日ではなく、その三日後だからだ。
僕はずっとここに入り浸っていた。人間が堕落するまでの速さと簡単さに他人事のように驚きを覚える。怖いのは、それを改めるきっかけを失っていることと、それに対する嫌悪感が全くないことだ。多少の罪悪感はあるものの、怠惰への誘惑に打ち克つ力などなかった。
そのことを自覚しつつも僕はお気に入りの対戦型オンラインゲームにうつつを抜かす。僕がよくやるのはサッカーゲームとクイズゲームだ。そしてこの三日間はサッカーゲームに時間とお金を費やしている。
それというのも今は店内イベントが開催されていて、その順位によってゲーム内を有利に進める賞品が用意されているからだ。
もう少しで上位に食い込めるのだけれど、ここからがしんどい。当然、周りも強敵揃いで負けが込みはじめる。しかし、手持ちのカードではどう構成してもこれ以上の戦力アップは望めなかった。更には、イベント期間が終わる前に僕の財布のタイムリミットが近づいていた。
そして、上位進出の可能性を託した最後の試合が終わった。
スコアは3‐5。
ミドルシュートを3本放り込まれては善戦した方だけど、負けは負けだった。
プレミアムカードの存在が憎い。どうして僕の元には現れてくれないのか。
ゲーム終了後に出てきたカードもすでに持っている屑カードだった。
「はぁーあ……」
と上位進出ならなかった悔しさとゲームに対する理不尽な憤りを吐き出した。
残っているのは、激しい自己嫌悪だけ。いくらゲーム上で上位ランクにいたからといって、それは現実世界ではほとんど役に立たない。ゲームを知っている友人に自慢できるぐらいだ。
そんなゲームにのめり込んだ結果、僕の前に残された現実は、三日間、無駄に過ごしてしまった自分への怒りと前借りした8月分のお小遣いを全て使い切った悲しみだけだった。
――……何やってんだろ。
もうこの空間にいたくなかった。しばらくゲームを忘れようと、行きつけのゲーセンを後にする。電車代までつぎ込んでしまい、帰りは徒歩で二時間コースだがもうそれは慣れっこだった。中学時代に何度同じことをしたことか。
――そういえば高校に入って初めてか。
と少し驚く。
ゲームより楽しいものを見つけたのだろうか。
それは分からなかったけど、中学時代の自分より今の方が少しだけマシになっている気がして、若干、気が紛れた。
「どうせだから次の脚本でも考えながら歩くか」
その発想は中学時代と似たようなものだ。妄想から脚本作りに変わっただけ。そして、それを考えているうちに家について、ゲームのことも忘れてしまう(だからまた同じことを繰り返していたのだけど)。しばらくして、良いアイディアが頭に浮かんだのだけれど、それが具体化される前に中断を余儀なくされてしまった。
予期せぬ突然の出会いがあったからだ。
「あら、偶然ね」
凛々しい微笑みを浮かべた声優部の戦乙女の姿。
夕焼けを背景にしたその微笑みを前には、僕でなくとも心を奪われたはずだ。
「……ぁ……」
挨拶をしようと思ったものの言葉に詰まる。そういう性分だったし、見惚れていたこともあったけど、それだけが理由ではなかった。
あの時の答えをまだ出していなかったことを思い出したからだ。
「久しぶり。今日は倒れないでくれよな」
柔和な笑みを浮かべて副部長の社が軽く手を振った。
「からかうのはやめなさい。ごめんなさいね。気を悪くしないで。この人はこういう人だから」
「酷いなぁ。まるで僕が普通じゃないみたいな言い方だ」
「普通じゃないわ。声優としては褒め言葉でしょう?」
「確かに。でも部長から言われると複雑ですね」
「はいはい」
軽く受け流す弓流。社の口調が軽いのだからそれは当たり前の反応なのだけど、社の言葉の裏にはもっと重いものも込められている気がした。
――脚本を考えすぎて深読みするようになったかな。
と自分を客観的に見ることでようやく少し落ち着いた。
「・・それで、紅葉君」
「は、はい」
「この前の答え、聴かせてもらっていい?」
弓流の真っ直ぐな瞳が僕を捉えていた。
何故かとてもドキドキする。
その瞳がとても綺麗だからだろうか。
――僕には他に好きな人がいるのに……!
一瞬、自分への嫌悪が浮かぶが、それでも先の感情を否定することはできなかった。
「……この前って、声優部への勧誘の話しかい? まだ訊いてなかったんだ」
「ええ。愛好会でのお仕事がひと段落してから、と思って。・・もう自分の時間は持てるようにはなったでしょう?」
後ろの言葉は僕へ向けられたものだった。
二度三度と頷く。文化祭に向けての脚本はもう仕上がっている。
「じゃあ、改めて訊かせてもらうわ。紅葉君、私たち声優部に入部してくれるかしら?」
真摯な瞳であの戦乙女が僕を見つめている。
答えは、NOであるはずだ。
でも僕はそれを言葉にすることができなかった。弓流の美しさに魅入られたわけでも、面と向かって断るのができなかったわけでもなかった。
僕の心のどこかにまだ迷いがある。
その迷いを見透かしたように弓流は言葉を重ねる。
「・・まだ迷ってるのね。いいわ。なら、分かりやすくいきましょう」
「え?」
「貴方の台本で私たち声優部も文化祭に臨むわ」
「? 部長、それじゃ、今やっている本の稽古が無駄に・・」
「いいの。いつでもやる機会はあるし、それほど魅力的な内容でもないでしょう。あ、今のは部長としてではなく、個人的な意見よ」
「なるほど。俺も個人的には同意見ですが、愛好会と同じ内容のボイスドラマをやったところで、かえってつまらなくなるんじゃないですか? それに愛好会側が了承するとも思えませんね」
「ん……。そうね。けど、解散になってから紅葉君が声優部に来ても遅い」
「というと?」
「元いた部員との軋轢が酷いでしょうし、何より、私が彼の本でやる機会がなくなっちゃうわ」
声優部部長である弓流らしからぬ物言いに社が苦笑を浮かべる。その笑う瞳の奥には何か違う感情が隠されている気がした。
話題の中心でありながら、紅葉を蚊帳の外にして続く会話は社が頷くことで結論が出たようだ。
「紅葉君。うちの部長の言葉を聴いたかい?」
「はぁ」
「気のない返事だな。彼女にあそこまで言わせるなんて、他の部員が聴いたら嫉妬の視線で焼き殺されてしまうかもしれないのに」
「……」
じゃあ、貴方のその目が怖く見えるのは僕の気のせいですよね、と心の中で訊ねる。声に出すことなんてとてもじゃないができない。
「ま、冗談はさておき、声優部としては君の台本で文化祭の発表に臨みたい。でも、同じ台本では、優劣はつけやすいかもしれないけど、観客は面白くないだろう。愛好会もそんなことは望まないはずだ。彼らにとっては君の本の魅力だって武器なはずだから」
「そんな……」
首を振ろうとする僕を社が片手をあげて制した。
「謙遜はいい。それは君の個性かもしれないけど、使い方を誤ると他人を苛立たせるよ」
「え」
「そのうち、分かる時が来る。ずっと分からないかもしれないけどな。・・話を戻そう。君の本をやりたいけど、仕上げたばかりの台本は使用権が愛好会にある。当然の話しの流れだ。だから対応も簡単」
「どうするのかしら?」
「単純な話しですよ、部長。彼にもう一本、新作を書いてもらえばいい」
「……!?」
突然の話しの展開に僕は絶句した。
またあの地獄の日々を繰り返せというのだろうか。
よしんば、それを乗り越えたとしても、同じ期間(3か月)かかってしまったら文化祭が終わってしまう。
そんな僕の意見を代弁するように弓流が口を開いた。
「何を言ってるの? 文化祭まで3か月を切ってる。少なくとも8月には新しい台本の稽古に入っておきたい。そのために今年は夏休みの活動を強化したのよ」
「ええ、勿論分かってます。あ、紅葉君、夏休みの活動強化を提案したのは俺だから。恨むなら俺を恨むよう愛好会には伝えておいて」
「え……」
「馬鹿にしないで。それは声優部の総意よ。もし、恨みたいというのなら、声優部の代表である私を恨めばいい」
「そいつは失礼。・・だそうだ、紅葉君」
満足げな笑みを浮かべて社が僕へと声を向けた。弓流の答えが彼にとって予想通りのものだったからか。
ただ、愛好会の面々が声優部を逆恨みしていることを前提に話しをしているのだけは否定したかった。それは僕の居場所を馬鹿にされている気がしたからだ。
たどたどしくもその想いを口にする。
「は、はあ……。で、でも、愛好会のみんなは、口惜しがってはいましたけど、う、恨んではいませんでした。そ、それよりも短い収録日程をどう活用するかに考えをシフトしていたと思います。少なくとも会長と副会長はそうです」
「硝子姫と残念王子か。相変わらず手強そうだ」
「あら、そうじゃないと面白くないわ。勝負が決まっている賭けなんかに一生懸命頑張れないもの」
「へえ。意外とギャンブラーなんだね」
「私が好きなのは健全な賭け事よ。文化祭での勝負は声優部にとってレベルアップできる良い経験になる。勿論、私にとってもね」
弓流の最後の言葉は紅葉に向けられたものだった。正確に言えば、声優愛好会へ、か。
「そうですね。俺もそういう機会には乗り遅れたくないな。だからこそ、紅葉君にはもう一本、本を書いてほしい」
「え? で、でも時間が……」
「あるよ。長編を書くのは難しいかもしれないがね。・・君が書き上げたばかりの今回の本をやるとしたら全長は何分ぐらい?」
「えっと・・大体ですけど、40分ぐらいでしょうか。一時間はかからないと思います」
「なるほど。じゃ、この前、見せてもらった本は?」
『S・O・R・A』のことを言っているのだろう。けれど、実際、それを読んだ社ならば答えなくても分かっているのではないだろうか。
そう訝しみながらも紅葉は応じる。
「た、多分、15分前後じゃないでしょうか?」
その答えを予想していたように社が軽く頷く。
「そうだね。君はその本を当日の内に、正確に言えば二時間足らずで書いたそうじゃないか」
「……は、はい」
随分と愛好会の内情に詳しいなぁと思いつつ、紅葉は答えた。
あの時、「試しに台本でも書いてみない?」と副会長らに言われ、PCを渡された僕は、そのまま放置されて、初めての脚本作りに没頭した。
自分が作ったキャラクターが喋り、動く。
その初めての快感に酔いしれて、僕は時間を忘れてPCに想いを打ち込んだ。
その結果、二時間で生まれた台本があの『S・O・R・A』だった。
「なら、同じくらい。希望を言えば、20分くらいの作品をもう一本作ってくれればいい。それなら短期間で脚本の制作が可能じゃないか?」
「……」
社の言葉は確かに論理的だった。
タイミングも絶妙だ。ちょうどやることもなくなり、愛好会の活動が始まるまでの残りの一週間を無為に過ごすことへ怖れを覚えていたときでもある。
そしてさっき閃きかけたアイディアがある。それを形にしたいと思うのは脚本家として当然の気持ちだと思う。
正直、悪くはないな、と思う自分がいた。何より、こんなに自分を必要とされることなんて、生まれて初めてといっても良かった。その期待に応えたいと素直に思った。
ただ、自信がない。
当然だ。まだ脚本を書いたのは二回の経験しかないのだから。
答えに迷う僕を擁護するように、弓流が異論を唱えた。己の損得ではなく、相手の立場を考えたその態度に、知らず尊敬の念を抱く。
「そんな簡単なものじゃないでしょう。物を創るということは。良い物を創るためにはそれ相応の時間が必要だわ」
「俺はそうは思いませんね。時間をかけた物が良い物とは限らないし。時間をかけない物が悪い物だとも限らない。紅葉君の台本がそれを証明している」
「そうね。でも、それは決められた時間があったわけじゃない。好きに書いた結果、早くできただけよ」
紅葉の心を代弁するその言葉に大きく頷く。そうか、僕はそう言いたいのかと。
――言葉を口にすることが苦手な僕には、こんな毅然な態度は逆立ちしたってできっこないんだろうな。
僕の瞳には夕日の中でも輝くその凛々しき横顔が眩しく映っていた。
「その通りだとは思うけどね」
「なら・・」
「でも、そこに甘えていたらずっとそこにいるだけだ。次のステップに跳べるなら跳んでしまえばいい」
「紅葉君はまだ一年生よ」
「年は関係ないでしょう。それはプロの世界を知っている部長ならよくご存じのはずだ。どんどんステップを駆け上がっていった奴らの集まりがその世界です」
「……そうね。貴方のように」
「俺はまだまだヒヨっ子ですけどね。ただその場所に甘えてしまったら、もうその先にはいけない。年を重ねれば尚更ね。・・そういう人たちは嫌悪の対象でしかない」
初めて社の柔和な口調に険が混じった。その表情は弓流に隠れて紅葉からはよく見えなかったが、弓流が一瞬たじろいだことから険しいものであると容易に想像はついた。
「それは人それぞれよ。貴方がそういう人たちを嫌うように。そうなることが罪悪だとは決して決められないわ」
「悪ですよ。俺にとってはね。でも、ま、部長の言うことの方が正しいのでしょう」
ようやく社の言葉にいつもの柔和な口調が舞い戻った。
「・・ただ上に行く奴はごく一部の人間に限られている。だったら、普通であることはそれを邪魔することでしかないと思うな。普通を知っていた方が良いとは思いますけどね」
「参考にはさせてもらうわ。・・話しを戻しましょう。どうも貴方との話しは横道に逸れて駄目ね」
「俺は楽しんでますけど?」
「私も楽しくないわけじゃないけどね。・・それで紅葉君」
「は、はい」
突然、水を向けられてどきっとする。二人の遣り取りは息が合っていて見ている人を引き込む。その話しの内容が面白いのだろうか。今は中身を理解することはできないけど、その時が来たらきっと分かる気がした。
「さっきの話しだけど、一度、本気で考えてみてくれないかしら?」
「えっと……」
「それとも愛好会の活動が忙しい?」
その重ねられた問いには社が答えた。
「それはないでしょう。彼らの活動は8月に入ってから本格化するようですよ」
「あら、詳しいわね」
その何気ない感想に同意するように頷いた。どうしてそんなに愛好会の事情に詳しいのだろうか。
――まるで、愛好会の会員みたいだ。
と勘違い甚だしい感想を抱く僕の胸を他所に弓流は更に問いを重ねる。
「・・じゃあ、愛好会への義理立てかしら?」
一瞬、胸がどきっとした。それはずっと考えていたことでもあったから。
もし、僕が声優部のために脚本を書いたら、それは愛好会を裏切ることになるのだろうか。
――……多分、そうなんだろうな。
あの時の遣り取りでほとんどの会員が不快に思うことが想像できた。
それに声優部は愛好会の敵に回っているのだ。少なくとも文化祭での勝負が終わるまでは。そして、結果如何では声優愛好会は消滅する。客観的に考えればその可能性の方が高い。声優部に声優愛好会が勝てる可能性は限りなく低いと言わざるを得ない。それでも愛好会の面々が不安の一つも見せないのは何故だろうか。
最初は、会長たちを信じているからだと思っていた。でも、それは違うみたいだ。たぶんだけど、その状況が楽しいからオールOKなのかもしれない。そんな楽観主義で大丈夫なのか、と冷静に思おうとしても不安は生まれなかった。
声優愛好会がなくなるなんて全く実感が湧かない。賭けに勝てばいいだけのことだと単純には思えなかったけど、そういうのは会長たちに任せておけばいいと簡単に思っていた。僕ら一年生にできることなんて大したことはない。僕ができるのは脚本を書くことだけだ。会長の言葉を借りるなら「それぞれが自分の仕事に全力を尽くせばいい。それが結果に繋がる」となるのだろう。それもアニメからの引用だったけど、僕の胸には会長の言葉として届いた。
声優部に脚本を書くということは、そんな声優愛好会を裏切ることになるんだ。
敵に対して塩を送るのは、アニメの中だったら格好良いかもしれないけど、現実世界では必ずしもそうとは限らない。いや、レア・ケースになるだろう。それに愛好会はただでさえ圧倒的に不利な状況に立たされている。どうして塩を送ることなどできようか。
だから、あえてそのことをあまり考えないようにしていたのかもしれない。
どこかで、声優部に脚本を書きたいと思う心がある。それはもう否定できない。自分が創った世界が声優部ではどう再現されるのか、興味があるんだ。
あの時、まどろみの中で聴いた世界に僕は魅了されていた。
「形はどうあれ、誠意を尽くしている部長に返事をしないのは狡いんじゃないか?」
「あ……。す、すみません」
思考の渦から呼び戻されても僕には消え入りそうな言葉で謝ることしかできなかった。
「すみません、か。便利な言葉だな。特に逃げるときには」
「社君!」
「言わせてください、部長。・・いいか、紅葉君。声優部は何も強制していない。ただ君を勧誘しただけだ。勿論、断る権利もある。しかし、君は答えなかった」
「……はい」
「それは迷っているからだろう? だから、部長と僕は分かりやすく愛好会と同じく君の台本を演じることで、どちらが君の世界を創ることができるか見せようと提案した」
「……」
社の言葉に顔を青ざめながらも頷いていた。事実を語っているだけだからだ。でもそれはまるで糾弾でもされているかのような光景に違いない。もう勘弁してほしいと思っても社の追及は終らない。
「そして、それの答えもない。断るなと言ってなんていないのにも関わらず、だ。その態度はあまりにも失礼じゃないかと俺は言っている」
「あ、す、すみま・・」
「だから謝るな。イエスかノーか。答えは簡単だ。声優部への勧誘は何も今日、初めてしたわけじゃないだろう」
「は、はい……」
返事をしつつも僕は答えを見つけられなかった。というよりも、見つけようなんて考えはまるでなく、ただこの場から一刻も早く逃げ出したかった。
どうして僕がこんな目に遭うんだろう。
あやふやな気持ちが溢れて、泣きたくなる。一言でも言葉を漏らしたら涙まで一緒に漏れ出してしまいそうだった。
「……もういいわ」
「部長」
「ここまでにしましょう。ごめんなさいね、紅葉君。貴方を困らせてしまったみたい」
「いえ、そんな、悪いのは僕の方で……」
「いいのよ。ただ私たちに悪気はないことだけは分かっていてほしいの。そして貴方を誘ったのは、元を正せば、ただの私の我が侭よ」
「え?」
「貴方の創った世界に惹き込まれただけ。だから、私もその世界に入りたいと思った」
少しはみかみながら笑う弓流。
その笑顔を前に僕は自分を恥じた。
だって、我が侭は僕の方だ。自分の都合ばかり考えて、相手のことを何一つ想像しようとすらしない。今も、ただ上手にこの場を逃げ出すことばかりを考えていた。
弓流はいつだって真っ直ぐな言葉を僕に向けてくれていたのに、どうして素直にそれに応えることができないのか。
狡いと言われた意味を僕はようやく理解していた。そして、その狡さの裏には自分自身への自信の無さが隠れている。素直な想いを吐き出せば、それと向き合うから・・怖いんだ。
――本当、狡いな。
僕は心底、自分に嫌気が差した。自己嫌悪の穴に落ちそうになる。きっと一人だったら落ちたまま出られなくなっていたに違いない。けれど、今は目の前に僕を真っ直ぐ見る戦乙女の姿があった。
夕焼けを背景にしたその立ち姿は、綺麗で、そして優しかった。
その凛々しさに僕はどうしてか、あっさりと、自分でもびっくりするくらい、開き直ることができた。それは生まれて初めてのことだったかもしれない。
「・・紅葉君?」
心が何処かに飛んでいた僕を、弓流の声が呼び戻してくれた。
それに縋るように僕は己の想いを吐き出していた。
「……ぼ、僕も、部長さんの創る世界が好きです。あ、あの時、聴いた二人の芝居が・・わ、忘れられません」
「! ・・ありがとう」
にこりと笑う弓流。
その不意な包容力に、僕はたかが外れるように言葉を重ねた。考える前に想いを言葉にしていくその作業は、僕が昔に忘れていたモノだった。
「で、でも・・僕の居場所は愛好会なんです。そ、そこを失いたくない。なのに声優部で自分の作品が形になることを望んでいる自分がいて……。本当、狡いですね、僕は。こ、このことにさえ副部長さんに言われなければ気づこうとしなかった」
溢れる涙が景色をぼやけさせる。けれど、それでも僕はそれを隠そうとしなかった。心の底を晒したのに、今更、涙を隠したところで何の意味がある。
無防備な今の僕の心なら、どんな些細な言葉でも、そこに刃が含まれていれば簡単に傷つけることができるはずだ。でも、弓流はそれをしなかった。
ただ優しく笑う。戦乙女と呼ばれる彼女だけど、その姿に戦という冠はいらなかった。
「けれど貴方は気づいたわ」
「え……?」
涙を拭うことさえ忘れて問い返す。滲んだ世界で戦乙女が凛々しくも真っ直ぐな瞳をこちらに向けている。
「いいじゃない。貴方がどう生きようとそれは貴方の人生よ。何より貴方の素直な言葉が聴けて私は嬉しい」
「え……」
思いがけない言葉に僕はいつもと違う意味で呆然となった。
それは自分の存在を受け入れられた感触。
駄目だ、と思いつつも、そこに惹かれる自分がいた。
それはどうしようもない事実。
でも、素直に認めていいのだろうか。
ここにも僕の居場所はあるんじゃないか、と思う僕がいた。
「俺は狡いことが悪いことだと思っていない。それは自分の本質なら受け止めて生きていけばいい。知らず、自分を誤魔化して生きていくよりずっとマシだからな。・・でも、素直な言葉が気持ちいいっていうのは俺も部長と同意見だな」
いつもの笑みを湛えて社が言う。
この時、僕は素直な想いを交わすことの気持ちよさを初めて知った。
「あ、あの、だ、だから……」
中々、言葉にできない僕を、しかし、今度は二人とも黙って待っていてくれた。
その優しさに僕は気づけるようになっていた。少しだけ、自分のことしか考えない自分から抜け出せるようになった気がした。
その感触が後押ししてくれたのか、僕はようやく言葉を重ねる。
「・・書けるだけ書いてみていいですか」
「何を?」
「せ、声優部のための脚本です。でもそれとS・O・R・Aを渡すかどうかは愛好会で話し合って決めてもいいですか? 勿論、出来が悪ければ使うこともないでしょうけど」
それは謙遜ではなく本心だ。だって、まだどんな話しを書くかも決めていないのだ。何より、脚本の面白さという基準が分からなかった。今は、たまたま書いた二本の作品が面白いと認められただけだ。次の本も同じように面白いと思ってもらえる自信なんて持てるわけがない。
その葛藤に気づいているかのように弓流が、ゆっくりと頷く。
「ええ、いいわ。でもあと一週間でなんて大丈夫?」
「だ、大丈夫です。自信はないですけど、や、やってみたいんです」
「ふふ。男の子だな」
「茶化さないで」
「すみません。でも、俺はそういうの嫌いじゃないんで」
「あら、私もよ」
顔を見合わせて笑う二人。
まるでアニメのワンシーンのようなその光景に僕の口許からも笑みが毀れた。
そうして僕もまたそのワンシーンの中の一人となる。
演技もこういうことなのかな、と場違いな感想を抱く。この経験が後の僕自身の助けとなることを勿論、知る由もない。
夕日が沈み、夜が空を染めていく。
けれど、心の中で一度火が点いた何かが、僕の行き先を眩しく照らしている気がした。
・・・続く
2023年07月05日 15:19